聖書『マタイによる福音書』を読んだので、感想を書くよ。

どうも、Kindle~聖書が99円で買える時代。でも書いたのですが、今はあんな2000ページ弱もある分厚い書が、すごく安いお得な値段で手に入ることをお伝えしました。

『生涯に1度は読むべき本』といわれる聖書ですが、そのお値段がワンコインというのはすごい時代ですよね。紙の本ではたぶんできないことで、Kindle版すなわち電子書籍ゆえに実現する価格なんででょう。

テクノロジーの進歩がもたらした低価格。本代が節約できるKindleは庶民の味方であります。

そこで現代では貴族ではないわれわれ一般人でもこの分厚い聖書を読めるわけですが、さっそく筆者も新約聖書の一部である『マタイによる福音書』の部分を読んでみたので、感想を書いていくことにする。

ちなみに、このブログを書いてる筆者は聖書を今までに読んだことのない普通のド素人なので、正確な解説というよりは多分に個人的な見解・偏見を含む内容になってると思います。

そこらへんはご了承してお読みください☆

マタイによる福音書は新約聖書のいちばん最初に書いてあるイエス・キリストの物語のことだ。

どんな内容かというと、聖書において神の子とされるイエス・キリストが生まれてから死ぬまでと、その間の活動や語った言葉を記した本なのだ。キリストは最後に張り付けにされて死んでしまうが、その後にまた復活したと書かれている。いろいろとナゾの多い本だが、いったい何が読む者に伝えられてるのだろうか。

まず筆者が初読で感じた印象──ファーストインプレッションは、「なんかフニャフニャした文章で、何が言いたいのかさっぱり分からんぞ?」というものだった。悲しいことだ。

世界中の人が読んでいて価値があると称賛されてる本なのに、筆者には書いてあることの意味がよく分からなかったのだ。

何故なのだろう。聖書も昔は一部の貴族や聖職者にしか読まれなかったと言われている。庶民や農民は本に書いてある文字が読めないからだ。

私が庶民だから書いてあることが分からないのだろうか? 貴族ではない者には、神聖な真理を理解することすら許されないというのか……。

何というか、表現がすごくふわふわして淡々としてて、博物館で抽象画を見てるような気持ちになるんですよ。具体性のない抽象的な表現ゆえに、意味を様々に解釈できてしまう……。結局、白い紙の上に何が描いてあるのか、見るものの想像にゆだねられる。そんな芸術作品を鑑賞してる気分になるので、読んでるうちに眠くなってしまいました。

ただ、何度か読んでいくと、その理由も分かるようになってきました。聖書が分かりにくいのは、昔に書かれた本だからじゃないんだな。キリストの語る言葉というのは、いつも『例え』を使って言い表されるからなんだ。

よく文学においては比喩表現がうまい作家とか言ったりするけど、キリストの言ってることはまさにこれなんだ。『比喩』つまりメタファーだったんだな。

聖書の中にも、キリストが例えを使って話すことがはっきりと記述されているので(マタイの書13章13節)、ここに注意しながら聖書を読まないとダメだったのだ。

作中で大事なことがメタファーで語られてるなら、筆者の感じたふわふわして抽象的だという印象も説明できる。まさに、比喩で語られてるからこそ、ふわふわで曖昧なのだ。

じゃあ、その例えで表される内容とはどんなものなのか?

例えで語られるのは隠されてきたこと?

マタイの書にはこうも書かれてる。

「私は例えをもって口を開き、世の基が置かれて以来隠されてきた事柄を言い広める。」

キリストが自らこう語ってるのだが、どうも神の子はメタファーを用いてこの世が作られて以来隠されてきた真理を語ってるよ、と言ってるわけなのだ。隠されてる事柄とは何だろうか?

言ってはいけない秘密だから、比喩を用いて表現をボカシながら語ってるのだろうか?

聖書の中では奴隷とか女を差別してるかに見える表現がでてくる。こういう現代ではタブーとされる事柄を、昔の本だからという理由でそのままの形で掲載されてはいるが、今の時代に書かれる本であれば修正されたりボカシた表現にされる部分だ。

キリストが語ることは、何かホントだけど言ってはいけない事、その当時にはそこまで表現におけるタブーなど無かっただろうに、はっきり言っちゃうとマズイ内容を遠回しに言ってるのだとも思われる……。

『聖書の暗号』をコンピューターを用いて解読しようとする科学者もいるみたいですが、そのやり方で本当に何かが分かるのかはともかく、キリストは何やら深遠な真理みたいなのを社会的なタブーに触れないように、遠回しにそれとなく伝えてるのではないでしょうか。

そう思って読むと、ふわふわしてた聖書の内容がわりと見えるようになってきます。書かれてる通りに読んじゃダメで、はっきり言えないけど神の子が内心で伝えたいことを読み手はすくい取るのだ。

それで結局なにが書かれていたのか? 筆者の個人的な見解だが、述べてみることにする。

キリストの教えは、3匹の子ブタ?

散々、聖書はふわふわしてると評してきた筆者ですが、実はそのふわふわした表現の中には明確な意味があると思っています。

というか、一つの同じ内容をいろんな例え話を用いて、くり返し述べてるだけだったりします。

ひとつ例を上げてみましょう。(マタイによる福音書7章24節)

~キリストが山の上で群衆に訓示を垂れる『山上の垂訓』という有名な場面。たくさんの教えを語った後にした例え話~

それゆえ、私のことばを聞いてその通りに行う者はみな、思慮深い人です。彼らは岩塊の上に家を建てた人に例えられるでしょう。その家は、雨がどしゃ降りになって洪水が来ても、風が吹いて打ちつけても、崩れ落ちませんでした。

岩塊の上に土台が据えられていたからです。

そしてまた、私のことばを聞いてもその通りに行わない者はみな、愚かな人です。彼らは砂の上に家を建てた人に例えられるでしょう。その家は雨がどしゃ降りになって洪水が来て、風が吹いて打ち当たると、ひどく崩れ落ちてしまいました。

イエスの言葉を聞いてよく理解する者はたしかな土台の上に立ってるのだと言っています。また、イエスの言葉を聞いても言うことを聞かない者は不安定な地盤の上に立ってるのだと言っています。

そして、洪水のような大災害が来ると、信仰のうすい者は流されていってしまうのだそうです。

どうでしょう? わりとシンプルに解釈できるのが分かるかと思います。まるで『3匹の子ブタ』の童話のように言ってることは明快です。この話の中のブタも、わらや木で作った家はオオカミに吹き飛ばされてしまい、レンガで作った家はだいじょうぶでした。

ちゃんとした土台や素材でできてる家はちょっとしたことでは揺らがないと教えています。

たしかな土台とは、キリストの教えであり言葉のことになります。これを知ってよい行いをする者はいずれ救われる者だと言っています。

これはたくさんの例え話の一例ですが、べつに思ってたほど難しくないと思いませんか? 童話みたいに解釈できますね。とうぜん、多くの例え話はどの言葉が何のメタファーなのかを読み取らないと意味がちんぷんかんぷんになるのですが、ちょっとした暗号文だと思って見れば意味をくみ取ることができるんです。

聖書の読み方を知らないと、ただのよく分からん言葉の羅列になってしまうところでした。価値のある本は必ずしも分かりやすいわけじゃないですものね。

まとめ

いかがでしたでしょうか? 聖書の一部である『マタイによる福音書』の感想と見解を書いてきました。私はクリスチャンではないのでキリストを信仰する立場でもないのですが、安くていい本が好きな筆者には聖書がお手頃価格なので手に取りやすいのでした。

ちょっと意味が掴みづらいですけど、何回か読むとコツが分かってその奥にある神の真理に手が届くことでしょう。

世界中の人が家に一冊は持ってるレベルの有名な本を、もしこのブログを見て興味をもったら手に取ってみるのもいいんじゃないでしょうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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